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第8話 道具の作法

Author: いろは杏
last update publish date: 2026-08-31 07:00:00

 神崎邸の玄関ホールに、艶やかな声が響き渡った。

「おかえりなさい、奥さま。――ああ、もう、奥さまでもないのかしら?」

 宝生亜里沙。

 昴の、初恋の女。普段はか弱く可憐なシングルマザーにしか見えないというのに、今の彼女の表情には、かつて昴の前で見せていた従順さなど微塵も残っていなかった。明るいブラウンの髪をいつものように惜しみなく巻き、赤い唇を、勝ち誇った弧に歪めている。

 彼女は、まるでこの家の女主人であるかのように、玄関ホールの中央に立っていた。

 杏奈は、何も言わず靴を脱いだ。流産と、母の急変と、昨夜の契約。あまりにも多くのものにすり減らされた体は、もう、亜里沙の挑発に反応する気力すら残していなかった。

 その沈黙が、かえって亜里沙を苛立たせたらしい。彼女は、ヒールの音を響かせながら、杏奈に近づいてきた。

「聞いたわよ。あなた、昴さんの所有物になったんですってね。妻の座も失って、ただの道具に」

 亜里沙は、くすくすと喉を鳴らして嗤
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     扉の向こうは、静寂と薄暗がりに沈んでいた。 昴の書斎。広い室内には、天井まで届く書架が壁を埋め、重厚な執務机が窓を背にして据えられていた。 カーテンは半ば閉じられ、差し込む朝の光が、宙に舞う埃を白く照らしている。男の匂いがした。彼の纏う、冷たく乾いた香り。それが、この部屋にも染みついていた。 杏奈は、そっと足を踏み入れた。 心臓が痛いほど鳴っていた。もし、見つかったら。けれど、引き返すつもりはなかった。これは、自分が立てた誓いの、最初の一歩なのだ。 部屋は、塵ひとつなく整えられていた。 けれど、二歩、三歩と進んだところで、杏奈の足が止まった。 匂いだ。 彼の乾いた香りの下に、別のものが混ざっている。甘く、重く、まとわりつくような――昨夜、この部屋に満ちていたはずの香水。 杏奈は、ゆっくりとソファのほうへ目をやった。 クッションは整えられ、グラスも片づけられている。それでも、背もたれの布地に、明るいブラウンの髪が一本、朝の光を受けて金色に光っていた。 杏奈は、それを、長いこと見つめていた。 ――この部屋には、五年間、一度も入れてもらえなかった。 掃除さえ許されなかった。近づくことも、扉に触れることも。この家で最も固く閉ざされ、妻でさえ立ち入りを拒まれた、男の聖域。 その聖域のソファで、あの女は、髪を乱していたのだ。 喉の奥から、笑いがせり上がってきた。声にならない、乾いた笑い。杏奈は、口元を手で押さえた。 滑稽だった。あまりにも。 五年間、この扉の前を通るたび、そっと足音を殺していた自分。彼の領域を侵さぬよう、息を潜めていた自分。その健気さの、なんという無意味さ。 ――そして、そこで、笑いが止まった。 だったら、なぜ。 杏奈は、光る一本の髪を見つめたまま、動けなくなった。 これほどまでに、あの女に溺れているのなら。この聖域にまで招き入れ、髪を乱させ

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     神崎邸の玄関ホールに、艶やかな声が響き渡った。「おかえりなさい、奥さま。――ああ、もう、奥さまでもないのかしら?」 宝生亜里沙。 昴の、初恋の女。普段はか弱く可憐なシングルマザーにしか見えないというのに、今の彼女の表情には、かつて昴の前で見せていた従順さなど微塵も残っていなかった。明るいブラウンの髪をいつものように惜しみなく巻き、赤い唇を、勝ち誇った弧に歪めている。 彼女は、まるでこの家の女主人であるかのように、玄関ホールの中央に立っていた。 杏奈は、何も言わず靴を脱いだ。流産と、母の急変と、昨夜の契約。あまりにも多くのものにすり減らされた体は、もう、亜里沙の挑発に反応する気力すら残していなかった。 その沈黙が、かえって亜里沙を苛立たせたらしい。彼女は、ヒールの音を響かせながら、杏奈に近づいてきた。「聞いたわよ。あなた、昴さんの所有物になったんですってね。妻の座も失って、ただの道具に」 亜里沙は、くすくすと喉を鳴らして嗤った。「みじめねえ。でも、お似合いよ。あなたみたいな地味で退屈な女には、それがちょうどいいわ」 杏奈は、亜里沙の顔を静かに見つめた。 不思議だった。以前なら、この言葉に、胸を抉られただろう。けれど今は、奇妙なほど、何も感じなかった。愛が死に、子を喪い、絶望の底まで落ちきった心には、もう、傷つく余白すらなかったのだ。「……何か、ご用ですか」 杏奈の凪いだ声に、亜里沙はわずかに鼻白んだ。「ご用? ふん。これからは、わたしがこの家に自由に出入りするから。そのつもりでいなさい、ってこと。昴さんが、許してくださったの。わたしと、わたしの可愛い子のために」 ――子。 その言葉に、杏奈の胸の奥が、ほんのわずかに疼いた。失った我が子の面影が、よぎる。けれど、彼女はそれを表情に出さなかった。「だから、あなたは――」 亜里沙は、勝ち誇ったように続けた。「これからは、使用人として、わたしに尽

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     悲鳴は、声にならなかった。 救急車の天井の白さがぐにゃりと歪み、杏奈の視界は再び闇に呑まれた。意識が途切れる最後の瞬間まで、彼女は赤く濡れた指先を見つめていた。お腹を庇い続けたその手が、今、最も恐れていたものを告げていた。 次に目を覚ましたとき、杏奈は白い病室にいた。 窓の外は、すでに夜だった。点滴の管が、腕から細く伸びている。消毒液の匂い。規則正しい電子音。すべてが、あの余命を告げられた日と同じだった。違うのは――下腹に当てた手のひらに、もう、あの小さな熱が感じられないことだった。 杏奈は、すぐに悟った。悟ってしまった。 それでも認めたくなくて、彼女は枕元のナースコールを、震える指で押した。 やがて現れた医師は、あの日と同じ、痛みをこらえるような顔をしていた。その表情を見ただけで、杏奈にはすべてが分かった。けれど医師は、それでも、言葉にしなければならなかった。「神崎さん。残念ですが……お腹のお子さんは、助けられませんでした」 静かな病室に、その言葉がゆっくりと染み込んでいった。 土砂の衝撃と、長時間の圧迫。母体が受けた負担は、あまりにも大きすぎた。懸命の処置も、間に合わなかった。 ――医師は、そう続けた。けれど杏奈の耳には、もう半分も届いていなかった。「……そう、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど凪いでいた。 涙は、出なかった。泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、胸の奥がしんと冷えていくのを感じていた。まるで、体の内側に、音もなく雪が降り積もっていくように。 医師が去り、ひとりになった病室で、杏奈は、空っぽになった下腹をそっと撫でた。 ほんの数日前、ここには、たしかに命があった。淡い黄色のおくるみを夢見た、小さな命が。「お父さんになるのよ」と告げる日を心待ちにしていた、自分とこの子の、ささやかな未来が。 その何もかもが、冷たい瓦礫の下で消えた。「……ごめんね」 杏奈は、誰もいない病室で、声に出

  • 徒花、ふたたび咲く 〜私を道具と蔑んだ夫が、愛を乞うて地獄を這い回る〜   第4話 守るべき宝物

     その夜、昴は帰ってこなかった。 杏奈が温め直した夕食は、二度、冷めた。リビングの灯りの下で、彼女は明け方近くまで夫を待ち、結局は子供のことを告げる機会を逃した。 翌朝戻った昴は、いつもの冷ややかな横顔で、どこに泊まっていたのかも告げず、ただ「着替える」とだけ言って寝室へ消えた。 それから、数日が過ぎた。 杏奈は何度も切り出そうとした。お腹に、命が宿っていることを。けれど、そのたびにあのSNSの写真が瞼の裏をよぎり、声が喉の奥で凍りついた。 昴の、自分には決して向けられない、あの優しい笑み。亜里沙の腕の中の、幼い子供。「家族っていいね」という、無邪気で残酷な言葉。 それでも、伝えなければ、と杏奈は思っていた。この命にだけは、罪はないのだから。     * * * 機会は、思いがけない形で訪れた。 神崎家が出資する、地方の保養施設。その視察に、昴が同行を命じたのだ。夫婦そろって顔を出さねばならない、という、ただそれだけの同行。 それでも杏奈は、わずかに期待した。慣れない土地で、二人きりの時間が少しでもあれば――そのときこそ、子供のことを打ち明けられるかもしれない、と。 けれど、その期待は、現地に着いた瞬間に砕けた。 施設には、亜里沙がいた。 昴が呼んだのか、彼女が押しかけたのかは分からない。ただ、亜里沙は当然のように昴の隣に立ち、当然のように杏奈へ、あの猫のような目を向けた。「あら、奥さま。こんな田舎まで、わざわざご苦労さまです」 艶やかな赤い唇が、嗤いの形に歪んだ。 杏奈は、何も言い返さなかった。言い返す気力も、もう残っていなかった。ただ、夫の隣に立つ華やかな女と、その傍らで何も咎めない昴を、静かに見つめていた。 視察の最中も、亜里沙は終始、昴に寄り添っていた。足元が悪いと言っては彼の腕に縋り、寒いと言っては彼の上着を求めた。 昴は、それを拒まなかった。杏奈には一片の優しさも見せないその手が、亜里沙にだけは

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